イエスキリストにある希望を届けるホーリーホーププロジェクト
どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。 ローマ 15:13
メッセージ

holyhope.net >メッセージ > 能力や成果ではなく心

能力や成果ではなく心 マタイ25:14〜29
天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。
五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。

さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。
すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』
その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』
ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。』
だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。


 この「タラントのたとえ」を読んでいくと、いっくら信じる信仰による救いといっても、何もしなければ神様に裁かれる、やっぱり神様のために、ある程度は何かをしないと救われない…かのようにも読めると思うんですね。

しかし、24節をみてください。
あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。
これが、1タラントの男の理解です。しかし、神様は、本当に「蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方」なのでしょうか…。

そうではないですよね。
神は、その一人子イエス・キリストを与えたほどにこの世を愛された…愛なる神です。
つまり、この男の主人に対して言っていること、主人に対する理解が、おかしいんです。そこが、イエス様が言いたい最大のポイントです。

福音の大原則は、行ないによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰による救いです。聖書全体から見れば、そうです。
しかし、一箇所だけを抜いて見てしまうと、時に思わぬ誤解を生むことがあるんですね。

 このタラントという言葉、英語でいえば「タレント」ですが、この言葉も、多くの場合、能力や才能、クリスチャン用語でいえば「賜物」として、受け止められてきたと思います。それは、すべて、この「タラント」のたとえ話から派生してきた意味です。「与えられたタラントを用いて…」というふうに、与えられた賜物・能力を生かして…という意味で使いますよね。
 ところが、本来の「タラント」の意味は、元々は重さを量る「はかり」のことで、重さ、金のをあらわす単位にもなったんですね。つまり、この時、イエス様が語られたたとえ話の中での「タラント」という言葉に、能力や才能、賜物という意味はないんです。
そこで、タラント イコール 能力という公式も、一旦、外して見ていきます。

 1タラントは新改訳聖書の下の注釈では、6000デナリとあります。1デナリは、労働者の一日分の給料に相当します。一日1万円と見積もれば6000万円、安く見積もって5000円としても、およそ3千万円という金額になります。

ですから、15節を読み替えますと、
彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには1億五千万円、ひとりには6千万円、もうひとりには3000万円を渡し、それから旅に出かけた。

すごい話ですよね。
もし会社で、社長が留守にする間、3000万円の決済を一任するとしたら、かなりの実力と実績がある人ですよね。誰でもいいという額ではありません。彼は、おのおのその能力に応じて…とありますから、この1タラントの男は、決して能力の低い男ではないんです。確かに、5タラントや2タラントに比べると、1タラントしか与えられていないように思えるかもしれません。もしかすると、この男の立場だったらそう思うのかもしれません。でも、実は3000万円、1タラントも与えられているんですね。
 この私に、能力に応じて、無担保で3000万円の投資をしてくれる人がいるか…というと、まずいないと思います。いたとしたら、よっぽど美しい誤解をしているか、何か裏があるか…どちらかです。せいぜい0.01タラントか、それ以下です。
まして貧富の差が激しい当時、弟子たちの中でも、1タラントなんて金を見たことのある人間なんていないのです。雲の上のような世界の話なんですね。

 この1タラントの男には、それだけすごい大金を管理、運用できるだけの能力もあったし、十分な実績もあって、信用もありました。だからこそ主人は、この男に1タラントを託したんです。

ところが、主人が戻ってくると、この男は、こういうのです。
『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。』

なんで、この男が、そんなことをいうのか、全くわからない。
これだけの信頼も受けているのに、なぜこんなことを言うんだろう…そういう話です。
主人は決して蒔いていないわけではないのです。3000万円も投資しているんですね。
 
この主人は、決して、1タラントで何の利益が得られなかったことで、腹を立てているわけではありません。あなたはわたしのことをそのように思っていたのか…、この男の思いにショックを受けているのです。

私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』

25:26 ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけ者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。
25:27 だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。


もし、本当にこの主人がひどい主人で、失敗するのを恐れて何も出来なかったとするなら、確かに銀行にでも預けておくはずなのです。でも、彼は、それすらしていない。
あのひどい主人のためには、特に何かしようとは思わない。何かをしたいなんて思いはおこらない。これが、あなたから預かったもの。言われたとおり預かっておきました。それを、そのままあなたに返します。これが、この男の心です。
この男にとって、1タラントの金貨も、銀貨も銅貨も、石ころも同じ。その1タラントを託した主人の信用も愛も心も理解しようとはしません。ただ地面に埋めてしまうのです。

私たちに与えられている最大のタラントとは、なんでしょう。まさにイエス・キリストの愛ではないでしょうか。それは、能力に応じてではなく、無条件に与えられている…まさに恵みなんですよね。

こんな自分のことをも、イエス様は愛してくれている、十字架を背負ってまでも救おうとしてくれている…そのことを思う時に、何が出来るわけでもないけれど、そんなイエス様のために、何かがしたいじゃないですか。
…っていうか、それは小さなことかもしれないけれど、必ず何かはしているんですよね。
礼拝だってそうですし、讃美だってそうですよね。誰かに命令や義務ではないんですよ。神の愛が心に注がれてくるときに、自然と出てくるものなんですよね。
ところが、この1タラントの男には、そういう気持ちが全くないんです。

これが、当時のイスラエルの宗教家たちの実情でした。
彼らは、確かに、神様のことも信じ、熱心に律法も守っていました。しかし、彼らは、律法を守らなければ神から祝福を受けられない、律法を守らなければ神から裁かれる…、まさに、これが当時、最も一般的な神様に対する理解だったんです。だからとにかく裁かれないように、律法だけは破らないように、生活していたんですね。
 それは、イエス様にしてみれば、父なる神のことを「蒔かない所から刈り取るひどい方だ。」といわれているに等しかったのではないでしょうか。

 一方、イエス様は、取税人や遊女、罪人と呼ばれていた人たちを受け入れて、罪を赦していくわけです。…その姿をみた時に、神を恐れないのか、あれは神を冒涜している…、そんなことをしたら、俺たちまでが危ない、宗教家たちの多くが恐れのあまり、反発してしまうんですね。

イスラエルの宗教家たちのことも、決して神様から愛されていなかったわけではありません。
…私の目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している
イザヤ書にある有名な言葉ですが、それは、まずイスラエルに、しかも名指しで、語られた言葉です。しかし、彼らは、神の愛が目の前に現実となって現れた時に、彼らはイエス・キリストを十字架へと釘付けてしまうのです。

だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです

表現は厳しいようですが、イエス様も繰り返し、言葉を変えては、招いているのです。

本当に神は、蒔かない所から刈り取るようなひどいお方だと思いますか…。
 どうか、父の愛を受け取ってください…。
 私は、これから十字架を背負います。これが神の愛です。どうか受け取ってください。
どうか与えられて持つ者となってください。
これがイエス様の心です。

私達は、どちらかというと、大きなこと、優れたこと、立派なことに注目すると思います。偉業をなし遂げた人を見ると、ああ立派だな、すごいなと思うんですよね。それに比べて自分は…と、自分の小ささに劣等感を抱いたり、逆にあの人に比べれば、自分は偉いと優越感に浸ったりすることもあると思います。
 しかし、能力のあるなし、どれだけのことができるかできないかは、全く関係ありません。確かに、商売の世界では、能力や成果で与えられるタラントも決まるかもしれません。しかし、教会の世界、福音の世界ではそうではありません。信仰に応じて無条件に与えられる神様の愛を受けとりながら生きる世界です。

 ある五歳の男の子が、お父さんの誕生日に、お箸をプレゼントしました。
 ところが、それは料理で使う、長いお菜ばしだったんですね。そのお父さんは、料理なんてしたことなかったものだから、「これお父さんになの?お母さんにじゃないの? 少しは料理でも手伝えってことなのかな…」と戸惑ったらしいです。

でも、話を聞いてみるとですね、お父さんのお箸を買いに出かけたんだけど、その子が持っているおこずかいで買えるようなお箸がなかったんですね。それでも、お父さんにお箸をプレゼントしたくて、いろいろお店を探しまわっていると、長くて立派なお箸が眼に留まったのです。しかも、自分のおこずかいでも買える!それが、お菜ばしだったんですね。それで、その子は、もう喜んで、お菜はしを買ってきたんです。

そのお菜ばし。それは、五歳の男の子の愛だと思います。
愛というのは、形ではありません。立派なことでも、大きなことでなくてもいいんですね。能力でもない、成果でもない、心です。

一方、そのお父さんも、五歳の息子が自分のためにお箸をプレゼントしようとして買ってきたお菜ばしだとわかって、その日の夕飯は、その長いお菜ばしで食べたそうです。
それはお父さんの愛だと思います。

 神様の眼から見たとき、私達のしていることは、抜けているところ、足りないところ、とんちんかんなことも、大いにあると思います。
 しかし、それを愛として受け止めてくれるのも、神様の愛です。

神様は、決して「蒔かない所から刈り取るひどい方」ではありません。
神は、その一人子イエス・キリストを与えたほどにこの世を愛された…愛なる神です。

小さな者が、小さな者にする、本当に小さなことに眼を留めて、
『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』
イエス様は、そういって喜んでくれるのです。

ページトップへ