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どうしても必要なこと ルカによる福音書 10:25〜42
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 夏休みを目前に、旅行会社では忙しい日々が続いています。って、この時期、暇だったら旅行会社的に危ないんですが…。(^^ゞ

 漢字って、よくできているなと思うのですが、「忙」という字は心を亡くすと書くんですね。
 普段、お客様第一を心がけている人であっても、つい対応が雑になってしまったり、スタッフ同士でもちょっとぶつかってしまったりするものです。

 さて、聖書の中で、忙しさのあまり心を騒がせてしまったといえば、マルタさんが有名です。
 今日は、そのマルタとマリアのエピソードに焦点を当てていきたいと思うのですが、その前に「良きサマリア人のたとえ」から見て行きたいと思っています。
 …というのは、このサマリア人のたとえや、この10章、その前後一連の話は、イエス様が、まだイスラエルの北部、ガリラヤやその周辺で活動していた時期の出来事が描かれています。
 一方で、マルタとマリアの住んでいた場所というのは、イスラエルの真ん中あたり、エルサレムに近いベタニヤというところです。時間と場所が食い違っているんですね。本来ならば、19章あたりで出てくる話なのです。
 つまり、ルカは、このサマリア人のたとえの後ろに、あえて、このマルタとマリアのエピソードを挿入しているんです。

 良きサマリア人のたとえでは、宗教的な論争の中から、誰もが惚れ惚れするような、ある意味、理想的な愛の形が説かれています。
 ところが、それが、私たちには理想で終わってしまいやすいんです。
 ああ、いい話だな…、素晴らしい教えだな…と思っても、あまりに理想的過ぎて、自分とはまるで程遠い出来事のまま終わってしまいやすいのです。
 しかし、ここに挿入されたマルタとマリアのエピソードは、なんだか身に覚えがあるというか、私たちの間でも起きそうな日常の一コマ、非常に現実味のある出来事ですよね。

 理想的な愛を、私たちの現実レベルにまで下げていった時に、私たちがどうあるべきなのか、何を大切にしていくべきなのか、そのポイントを指し示してくれているような気がします。

 そんな視点で、まず良きサマリア人のたとえから見て行きます。

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

もし、私たちが答えるとしたら、なんですか。
誰かに、「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と質問されたとするならば、クリスチャンとしての答えは決まっています。
当然、「ただ、イエス・キリストを信じる信仰によって救われる」ですよね。

しかし、ここでは、「イエスをためそうとして」でわかるように、この質問には罠があります。
もしイエス様が「わたしを信じなさい。そうすれば救われます。」と答えたとするならば、律法を無にしている、神を冒涜している、そうやって神学的、学問的な論議の中で陥れようと魂胆があったんです。

ところが、イエス様もそんなことは百も承知、千も承知でして、
「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
と、うまく切り返したわけですね。

当然のことながら、彼は、律法の専門家ですので、彼なりの正しい答えを知っていたわけなんですよね。仕方なく、答えるわけです。

「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

これが、最も大切な戒め、
イエス様自身も、この戒めに律法全体と預言者とがかかっている…、これが聖書全体です。
そう語った、まさに一番大切な戒めです。
旧約聖書の律法の世界では、まさしく大正解なのです。

「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

ところが、実は、たとえ正しい答えを知っていても、それが実行できないのが、私たち人間の現実なんですよね。また、これが律法の限界です。

でも、ここで、イエス様は二つの質問をしていたんです。
一つは、「律法には、何と書いてありますか。」
客観的に、学問的に、聖書にはなんて書いてあるか…です。

しかし、もう一つは、「あなたはどう読んでいますか。」
主観的に、あなた自身はどのように受け止めているのか。あなたの現実問題として、どうなのかです。
その問いかけ。
もし、ここで彼が、「聖書にはこう書いてあります。しかし、私にはそれを実行することはできません。どうすればいいのか、教えてください。」、そんなふうに答える事ができたならば、話は変わっていたかもしれません。

しかし、彼は、正しい答えを知っていました。どうすべきなのかも知っていました。本人的には、実行しているつもりだったのかもしれません。
でも、実際には、目の前にいるイエスという存在を愛していないことにも気がつかず、自分は正しいと主張してしまう…そこに盲点があるのです。

 みなさん。聖書を読むとき、自分が正しくなるために、聖書を読んでも実はあまり意味がないんですよ。
 聖書を正しく理解しようとする姿勢は非常に大事ですが、自分の立場、自分の知識、自分の正しさを証明するために、聖書を持ち出して論議することほど意味のない事はないような気がします。
 むしろ、本来、聖書を読めば読むほど、自分の正しさよりも、自分の足りないところ、欠けたところ、罪が見えてくるはずです。でも、聖書の前、神の前では、そのことを認めてしまっていい場所でもあるんです。自分が正しくある必要は全くありません。むしろ「私にはそれを実行することはできません。どうすればいいのか、教えてください。」という姿勢で読んではじめて見えてくる答え、意味もあるんですね。

10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、だれのことですか。」


私は、神を愛している、家族も愛している、友人も愛している、ユダヤ人も愛している。
さあ、私の隣人とは誰だ…。私は、隣人を愛している。と待ち構えているわけですね。自分の正しさを示そうとして持ちかけているわけですから、自信満々です。
ナザレの大工のくせに生意気な、学問を知らない田舎者のお前に何がわかるというのか…そんな気持ちもあったのかもしれません。

そこで、イエス様が語ったのが、この良きサマリア人へのたとえです。

 エルサレムからエリコヘ降る途中、ある人が強盗に襲われます。
 このエリコヘの道は、曲がりくねっていて、死角が多く、強盗が多いことでも有名でした。

 はじめに通りかかかったのは、ユダヤ人の祭司です。
 次に通りかかったレビ人というのも、神殿で仕えるやはりユダヤ人のことです。

 彼らは、律法の専門家であり、宗教家です。本来ならば、真っ先に、その人を助けるべき人たちです。ところが、避けて通ったというのです。
「誰が私の隣人なのか…」
 彼らは、自分の隣人でなければ愛さなくても、律法には反しないと考えていました。それどころか、もし血に触れたら、律法の定めでは身を清める期間をおかなくてはなりません。その間、仕事ができなくなる。誰も見ていないし、面倒だから、隣人ではないことにしておこう…。そういうことは十分にありえたのです。
 これが彼らの考えていた律法を守るということ、彼らの言っていた正しさだったのです。

 その後に通りかかったのは、サマリア人です。

 サマリア人というのは、半分ユダヤ人、半分異邦人の混血の人たちです。外国の神々、偶像礼拝を取り入れてしまった、そんな彼らを何百年もの間、ユダヤ人たちは、口も聞かなければ、触っただけでも汚れる、犬さん、豚さん扱いして、差別していました。

 「強盗に襲われたある人」も、普通に考えてユダヤ人という設定です。

 ユダヤ人がサマリア人を助けるのではなく、そのサマリア人がユダヤ人を助ける…
 しかも、傷の手当てをし、宿屋に預け、代金を支払い、足りなければあとで私が払う、ありえないような徹底した介護です。ここが、このたとえ話の最大のポイントです。

 これは、単に、隣人を愛しましょうとか、いい事をしましょうとかいう、そういうレベルの話ではないのです。

 汝の敵を愛し、迫害するもののために祈れ。
 何世代もの恨み、憎しみを超えて、人を赦し、人を愛する…。
律法の命令だけでは不可能だった、常識を超えた、無差別、無償に与える愛、限りなく徹底して尽くす愛、そんなアガペーの愛が到来しようとしている。今、もう来ている。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているかわからずにいるのです。」
自らの腕に釘を打ちつける者のためにも祈る愛。
十字架を前にして、恐怖のあまり逃げてしまった弟子たちに向けて、なおシャローム、平安があるようにと語りかけ、手を差し伸べるキリストの愛。

そんなアガペーの愛が今、あなたの目の前にある、その宣言でもあるのです。

10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

「誰が、私の隣人なのか」ではなく、「誰が隣人になったのか」。
自分は、その人の隣人になれるのか。なっているのか…。そこが問われているのです。

10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」

彼は、やっぱり差別意識から、サマリア人とはいえないわけですよね。「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えるわけです。

するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

このサマリア人と同じ事が、できるのか…。
「自分を愛するように、隣人を愛する」ということ。
言葉にすれば、ほんの短い言葉です。ですが、なかなかどうして、私たちも難しいですよね。
それも自分の嫌いな相手。自分の苦手な人。自分のことを批判したり、非難したりする人。その人の隣人になっているのか…。なれるというのか…。
決して、自分はできているとか、自分は正しいなどとはいえないと思います。

 それにもかかわらず、私たちも、自分の正しさを主張して、誰かを非難してしまうことって大いにあるように思います。
 それもごく日常的な小さなことのなかで、おきている。それが、マルタとマリアのエピソードに繋がっているんです。

 このマルタとマリアの話。
 もし、マルタとマリアを比べて、マルタはダメで、マリヤが正しい、
 マリヤのように御言葉を聴く事が大事で、マリアのようになりましょう…と読んでしまうとしたならば、実は、この律法の専門家と同じになってしまうように思います。

 マルタはマルタでよいことをしていたんです。イエス様が家に来た時、マルタは、もう喜んで、もてなしの準備をはじめた。それは、イエス・キリストの愛を受けて、マルタの自主的、自発的な愛であったはずだったんです。

 ところがまあ、イエス様だけならともかく、有象無象の弟子たちも一緒にいたわけで、あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、それはもう忙しくて、大変だったわけですね。
 そんな時に、ふと目をやると、妹マリヤは何もせんと、イエス様の話ばかりを聴いている…。

 なんだか自分ばっかりが苦労しているようで、損をしているというか、まあ、だんだんと腹が立ってくるわけですね。
 マリアは、怠けている。マリアは、間違っている。マリアは、よくない。マリアは、ひどい。
 こういう感情って、私たちのうちにも、起こりがち…というか、実際ありますよね。

しかし、
10:41 主は答えて言われた。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」


どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけ

『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

 愛するという事。
 マルタの失敗は、最初の気持ち、イエス様を喜んで、愛する気持ちから外れてしまい、自分の正しさでマリヤを測り、マリヤを非難し始めたところにあります。
 でも、マリヤはマリヤで、イエス・キリストを愛し、この時には御言葉を聴くことが必要だと判断し、マリヤなりに良いほうを選んでいたわけです。それを非難したり、奪ったりする権利はマルタにはなかったわけです。
 逆に、もしマリヤが「先生。マルタにもてなしの準備ばかりしていないで、少しはお話を聞くように言ってください。」と言ったとするならば、イエス様はマリヤに同じように言ったのではないでしょうか。
 「マルタはマルタで、良いほうを選んだのだ。」

どうしても必要なこと、イエス・キリストが本当に私たちに望んでいること…
 それは私たちが愛するという事、その心、その1点に集約されてくるように思います。

 愛するという事には、こうすれば正しいという方程式はありません。
 また、これだけしていれば、もう十分だということもありません。限りがないんですね。
 あれもできたらいい、これもできたらいい、そう思ったとしても、自分自身の器の限界を超えてあまりに多くのことを抱えてしまえば、結局のところ、できずじまい、本末転倒にもなるのです。
 その中でも本当に大切なこと、本当に必要なこと、その時の状況に応じて、今の自分にできることをしていくことでしかないのです。

 失敗もあります。間違えるときもあります。足りないところも大いにあります。
 私たちは、決して完璧なわけではないし、またまだ発展途上です。間違っても「良きサマリア人」のようにはできないと思います。
 そればかりか、時に、律法の専門家やマルタのようになり、自分は神を愛していると言いながら、またイエス・キリストを間近に見ていながら、隣人が愛せない、愛するという事から外れてしまうことがあるように思います。
 しかし、ここが一番大切なのですが、そんな不完全で欠けだらけの自分の現実を見つめることができる時、そんな私たちをも愛するイエス・キリストの愛の大きさ、偉大さも見えてくるのです。あの「良きサマリア人」のように、いや、たとえ話ではない、歴史の事実として、イエス・キリストは、こんな私のためにも命を懸けて愛してくれているわけです。

 この私をもキリストが愛してくれているというので、
 失敗しても、間違ったとしても、
 また再び、自分なりに、自分らしく、
 神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…。この3つの愛に生きる。

 律法の専門家は、最初、「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と質問したわけですが、永遠のいのち、命って「生きる」ってことじゃないですか。
 「何をしたら永遠のいのちを受けることができるか」ではなく、「受けたいのちをどう生きるのか」「私たちにどんな生き方が与えられているのか」なんですよね。

 キリストの愛によって支えられ、守られ、育まれながら、また一つ、愛に生きる人生へと変えられていけたらいいですね。

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