どうか、望みの神が、あなたがたを信仰によるすべての喜びと平和をもって満たし、聖霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。 ローマ 15:13 | |||
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振り向いたキリスト マルコ5:21〜34 |
イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来て、イエスを見て、その足もとにひれ伏し、いっしょうけんめい願ってこう言った。 「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」 そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。 そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。 そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」 イエス様の活動の初期のころ、もう人気絶好調、あそこに、イエスがいるぞ!とわかると、たちまち多くの人たちが集まってきました。 テレビもラジオもない時代ですからね、もう、興味津々。何か珍しいものでも見れるんじゃないだろうか…。何か、ご利益があるかもしれん。特に癒しや救いを求めている人だけではなくて、いわゆる野次馬も集まってくるんですね。 その中で、ヤイロという人が、娘を助けに来てほしいとやってきたわけですが、家に行こうにも前にも進めないくらい、大勢がイエスさまの方へと押し迫っていました。 この長血をわずらっていた女性もその群衆の中にいた一人です。病気なのに、意気のいい群衆を掻き分けていくわけですから、それはもう大変だった思います。 「お着物にさわることでもできれば…」なんて、言ってたら、触るどころか、跳ね飛ばされちゃうんですね。 有象無象どもをかきわけ、とにかく必死で、着物の裾にでも触れば、きっと直る!つかんでみたら、ペテロの衣だったりしてね。あんた、邪魔!…なんか言いながら、とにもかくにも、必死に掻き分け、イエス様の着物に触った瞬間、直った!!! ところが 30 イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた。 …って、もうその女性以外の、その他、大勢の群集たちが、触るどころか、押し寄せて、押しくらまんじゅうしているわけですよ。 弟子たちも、「先生、もう変なこと言わないでください。誰が、触っているかって、みな触っています。私だって触っていますよ。」 ヤイロも、「先生、お願いですから、早く娘のところに来てください。どうか助けてください。」もう、必死で、先を急いでいたと思います。 ところが、それでも、 32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。 この女性も、困ったと思うんですね。 とにかく直りたい一身で、触ったけど、弟子たちはピリピリしているし、ヤイロさんはあせっているし、でも、イエス様は自分の事を探して先に行こうとしない…、恐る恐る出て行ったわけです。 しかし、なぜイエス様は、この一人の女性のことに、こだわったのでしょう…。 その後、イエス様がおっしゃった言葉はこれです。 「あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」 もし、イエス様が、ただこのことを言いたいだけだったら、大声で、「誰だかわかんないけど、あなたの信仰があなたを直したんだよ」って言えば、済む話のような気がします。 あえて、この女性のことを探し出す必要はあまり、ないような気もしますよね。 そこに、何か鍵があるような気がします。 私たちは、今回の話を見たときに、彼女の病気が癒された奇跡そのものや、奇跡を呼び起こした彼女の信仰や姿勢とかに注目していくことが多いような気がします。 しかし、この時、イエス様が注目したのは、彼女自身だったんです。 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。 そこで、今日は、この女性が病気を患っていた12年間という時…。その12年間という時に注目したいと思うのですが、皆さん、12年前は、何をしていましたか。 私は今年で30になったんですが、12年前といえば、18歳、高校を卒業し、大学へと進学した年です。それから、就職して、神学校に行ったり、結婚もしたりして、現在に至るわけですが、でも彼女の場合は、その12年間、ずっと病気のために苦しんでいたんですね。 それはそれは長い長い12年間だったはずです。 この「長血」という病気が、今でいうなんという病気かは断定できないんですが、出血を伴う婦人科の病気だと思われます。そうすると、ユダヤの世界では、汚れたものとして忌み嫌われてしまうんですね。理不尽な話ですが、彼女に触れば、汚れる…。社会的にも阻害されてきたんです。その病気のために、仕事も結婚もできなかったかもしれません。「群集の中に紛れ込み…」という表現がありましたが、当時の社会常識的に、彼女が、公に表立ってそんな群衆の中にいることなど赦されない存在だったんです。 まして、イエス様に触ったなんて言えない、彼女は、そう考えたと思います。だから、イエス様の正面にでるのではなく、後ろから「衣の裾にでも触れば…」だったんですね。 5:33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。 彼女が打ち明けた真実とは、きっと治ると信じて、衣の裾に触ったら、病気が治ったということだけではありません。 彼女は、12年間、そんな「長血」という病気だったこと、いろんな医者にかかっても駄目、ひどいめにもあわされて、全財産使いはたしてしまったこと、いろいろと話したと思います。絶望に陥ったこと、涙に暮れる日もあったと思います。その悔しさ、悲しみ、あるいは怒りや憎しみといった感情もあったかもしれません。 12年という時…。それが、彼女の真実です。 彼女は、イエスに、真実を余すところなく打ち明けた。 新改訳聖書をお持ちの方は見ていただけると分かると思うのですが、「あなたの信仰が、あなたを直した」という訳の、「直した」のところに小さい印がついていると思います。下の注釈を見ていただければわかるように、原文では「救った」となっています。これは、病気が治るという意味よりも、全人格的な救いを意味している言葉なんですね。 28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」 この「直る」も同じように印がついていて、全人格的な救いを表す言葉です。 ところが、その後の、29節 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直った ここには、印がついていませんね。ここでは別の言葉が使われていて、いわゆる病気が治る…、ごく普通の「直った」という言葉が使われているんです。 つまり、病気か治ったことでは、まだ「救われた」とはいえなかったんです。 たとえ病気が治ったとしても、あの医者たちは一体なんだったのかとか、財産もなくなって、私の12年間は一体なんだったのか…、もし、彼女がそっちの方に考えが行ってしまうとしたなら、そこに答え、救いはないんですね。それだけ、心に傷、病を負っているんです。 しかし、彼女が、イエス様に、病気のことも、その悲しみや、苦しみ、その真実を余すところなく打ち明けた、その後に、イエス様は、語りかけていくわけですね。 「娘よ…。それは、まさに彼女の人格に向けて、呼びかけられた言葉でした。 娘よ…あなたの信仰があなたを救った。安心して帰りなさい。」 それではじめて、彼女の全人格に対して、文字通りの「救い」が訪れたのです。 「病気にかからず、すこやかでいなさい。」 この先、彼女が、まったく病気にかからなかった…ことではないと思います。 クリスチャンになったら、カゼ一つ引かない、虫歯一本ならないという人は、まずいません。カゼにもなれば、虫歯にもなる。 そして、いつかは、この世の生涯を閉じるときも来るんですね。彼女もまた、同じです。 しかし、たとえ死を迎えるような病気になったとしても、もし、心は平安、すこやかにその時をすごすことがてきるとしたなら、それは、病気といえるでしょうか。病気も、もはや病気ではなくなっているような気がします。 レーナ・マリアさんという、ゴスペルシンガーがいます。彼女は、両手がなく、足の片方は半分だけです。 でも、そのレーナさんは、「私は、このからだで生まれてきてよかった」「なぜなら、イエス様は、この手もなく、足も半分の私を愛してくれているんだから…」というんですね。 そして、こんなことも言ったそうです。 「もし、もう一度生まれ返ることがあったとしたら、私は、もう一度、この身体に生まれてきたい…。」 それは、決して、単に彼女の心が強くて、そう言っているわけではないと思います。つらいことや苦しいことが全くなかったわけでもないし、普段の生活の中で、全く不平や不満がないってこともないと思います。 でも、「私は、もう一度、この身体に生まれてきたい…」、そう言えてしまうだけの愛や恵みを、イエス・キリストから、実際に受け取って、感じているからですよね。 手もない、足も半分、でも、彼女は、癒されている…とはいえないでしょうか。 イエス様のことを、よく「医者」として、たとえられますが、単に病気を見るお医者さんではなく、私たちの全人格、人間を見てくれる医者だと思います。 イエスは、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」 時に、私たちも、先を急ぐあまりに、一人の人のために、立ち止まって振り向くことができなくなることがあるような気がします。 静のCD製作の手伝いをしていた時なんですが、何日までに仕上げるためには、この原稿を何日までにデザイナーに渡さないと間に合わないとか、何日までに印刷にまわさなくてはならない、日程のことを考えてしまうとですね、静が、たとえば曲順をなかなか決めらなかったりだとか、細かいことでこだわっていたりとかすると、イライラしてきちゃうわけですよ。 しかし、芸術というのは普通の仕事と違って、必ずしも、期日どおりにできるものではないですし、作品へのこだわりというのも、あって当然ですよね。 私も、写真をやっていましたし、自分自身も細かいところにこだわるくせに、いつの間にか、仕事での習慣にならされていたんですね、先のことばかり、気にしすぎてしまったのかもしれません。 ある時、そのことに気づいて、急ぐのをやめた。そして立ち止まって、静のほうを振り向くことができた時、そこに実は、静を導くイエス様もいるということに気がつかされたのでした。 でも、また、イライラしちゃったりするんですけどね。 特にこの現代、次から次へと情報が流れていて、瞬く間に時代は変化していきます。その流れについていかないと、話題についていけなかったり、特にビジネスの世界では、どんどん取り残されてしまったりするわけですよね。 立ち止まってなんかいられない、振り向いてなんかいられない…、一人の人のために振り向くことが難しい、ゆとりや余裕を失っているのが、この現代なのかもしれません。 最近、少年犯罪が取り上げられるとき、インターネットやゲームの影響だとも言われてもいますが、人間関係の希薄さ、もしかすると、彼らは、誰かに振り向いてもらいたかっただけなのかもしれませんよね。 でも、イエス様は違います。 イエス・キリストは立ち止まり、振り向いてくださるお方です。 今日はお読みしませんでしたが、この後、ヤイロの娘が亡くなったという知らせが入るんですね。遅かった!!手遅れかのように思うわけです。でも、イエス様は、こう言います。「恐れないで、ただ信じていなさい。」この娘も、救われるんですね。 信じる信仰によって救われる。その言葉に、間違いはありません。 でも、もし、信じて救われて、その後、何らイエス・キリストとの関わりもなく、あたかもイエス様の後ろから、衣の裾を触っただけで終わってしまったような、すぐさま、どこか遠くに行ってしまうような存在だとしたなら、なんだか寂しい限りです。 イエスは、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われた イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。 イエス・キリストは、目には見えません。耳で言葉を聞くことはできません。しかし、今日も、ここにいて、私たち一人一人の声を聞きたいと願っている。かかわりを持ちたいと願っている。信じて、救われて、それでおしまいなのではなくて、信じた時から、イエス・キリストとの関わり、全生涯、全人格にかけての救いの業が、始まるんですよね。 どんなに先を急いでいても、一人のために振り向いて、その人のことを知ろうとしてくださる…、それがイエス・キリストです。 彼女は、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。 |