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荒野に道を… イザヤ 43:18〜21

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。
わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

 この御言葉は、イスラエルが敵国にやられてしまっている時のこと。いくつか説がありますが、イスラエルがバビロニアに滅ぼされて、外国に連行されていた時期のことだと考えられています。少なくとも外国勢力によって、イスラエルの民は、苦しい状態の中に置かれていたことは確かです。

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。

先のことというのは、これから先のことではなくて、以前、先にあった出来事のことです。
その昔、エジプトで奴隷の民だったイスラエルが、モーセによって導き出されたわけですが、紅海を渡り、荒野でマナというパンが与えられ、ついにイスラエルの地に導かれた…そのことを指しています。

ただ、そのこと自体を考えるなといっているわけではなくて、当時のイスラエルの人たちは、今と違って、昔はよかった。昔、神様は助けてくれた。でも今は違う。ああ昔の人たちはよかったな。そんな風に思っていたようです。
それで神様は、「わたしは昔いた過去の神ではない、今生きて働く神である。」そんな意味で「昔のことを考えるな」…と言っているわけですね。

 しかし実際に、その「昔」はどうだったかというと、イスラエルを目指して、いざ紅海を渡り、エジプトを出たら、いきなりイスラエルがあるわけではなく、荒野です。水かなかったり、食べ物がなかったり、このまま死んじゃうんじゃないかと、民たちは不満を言って、ああエジプトはよかった。昔はよかったって言っていたんですね(笑)。もしかすると、私たちにも似たような時はあるのかもしれません。

見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。


 「歴史は繰り返す」という言葉もありますが、私たちの人生は、常に新しいこと、今の連続です。
 たとえ、毎日、変わらず同じことが繰り返されているように思えたとしても、そこに恵みを注ぐ神様にとっては、それは常に新しいこと、今も新しい恵みが注ぎ続けている。常に新しい、新しい、新しい…。
 私たちは、昔、注がれた恵みを受け取っているわけではなく、今、新しい恵みを受けているわけです。

あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
 
 もし、皆さんがイスラエルの荒野に行ったとしたなら、必ず言われるのが、一時間にコップ一杯の水を飲んでくださいということです。特に乾燥地帯に慣れていない私たちは、すぐに脱水症状を起してしまうんですね。
どんな才能があっても、どんな優秀な人でも、たったコップ一杯の水が飲めなければ、死んでしまう世界。そこでは、身分や肩書きも、通用しません。それが荒野です。

 その荒野に、もし本当にただ放り出されてしまうとしたなら、右も左もわからず、死の彷徨になってしまうかもしれませんが、しかし、そこに道が設けられる。とにかく、その道を通っていけば、途中にはオアシスや村もあるかもしれないし、目的地にもたどり着けるのです。荒野を通らなければ行けない所もあるんですね。実際に荒野を通ってわかることもあるような気がします。
 エジプトを出たイスラエルの民も、荒野を通らなければ、イスラエルの地に行くことは出来ませんでした。荒野で40年間生活をしましたが、それは彷徨っていたわけではなく、神様の導きの中にあったんですね。乾ききった荒野で飲む水が与えられ、マナというパンが与えられ、多くの不平不満も言いながらも、ただ神の恵みによって生かされているということを実体験していくのです。

 聖書の別の箇所に、「わたしは、命の水の泉から値なしに飲ませる」…なんて御言葉がありますが、日本ではごく当たり前のようにあるただの水が、荒野では文字通り命の水になるんですね。

 イスラエルの近くの荒野では、何年かに一回、大雨が降るときがあります。それは、まさに恵みの雨です。その雨が降った後、何日かすると、赤や黄色の花が一気に咲き乱れる所があるそうです。
 荒野というと全くなにも育たないようなイメージがあるんですが、そうでもないんですね。普段は確かにほとんど何も育たないのですが、太陽はさんさんと降り注いでいて、水さえあれば、作物は驚く速さで成長するんです。
 何年か前に咲いた花の種が、地面の中で生きて残っていて、雨が注がれると、いっせいに芽を噴出して、瞬く間に花を咲かせる。一週間もしないうちに散っていく花々ですが、それはまさに命が輝く瞬間だと思います。
 
 死と面しているからこそ、反対に生きるということ、「命」が実感できる世界、実は、それも荒野だと思います。


 私が前の仕事を辞めて次の仕事が決まらないでいる時、妻の静がこんなことを言いました。
 「とにかくこの食卓に食べるものがある。普段、口では感謝しますと祈っていたとしても、どこか実感がなかったような気がする。でも今は、そのことが本当に感謝なことだと思う…」
 普通、亭主が4ヶ月も仕事をしていなかったら、文句を言われるところなんですけどね。本当に、いい奥さんで助かりました。(^^;)

 今の私たちの生活では、水もあり、食べる物もあるのが普通です。でも、それが当たり前のようになってしまい、「今、生きている」というような実感に乏しくなってこともあるような気がします。
 水や食べ物がある…それだけでも感謝なことのはずなのに、生きている実感が得られないばかりに、自分の存在価値を求めて、必要以上に背伸びをして、努力して、あくせくしているなんてこともあるのかもしれません。その努力が報われればまだいいのですが、時に疲れ果てて失望したり、忙しさだけに追われてしまったり、かえって本当の自分らしい命の輝きを失ってしまうことすらあるのです。
 そうでなくても人生、山あり谷ありです。私たちの人生の中には、楽しいこともありますが、苦しいことも様々なことが起こってきます。皆さんの人生を振り返った時も、おそらくそうだと思います。今、まさに人生の荒野のただ中にいる…そういう方もいらっしゃるかもしれません。
 私たちにとって、一番恐ろしいのは、喜びや感謝の感情が薄れていってしまう、命の輝きを失ってしまう、そんな心の乾きなのかもしれません。

 しかし、まさにその荒野のただ中にいてくださるのが、イエス・キリストなのです。イエス様は、私たちの苦しみも涙も、すべてご存知のお方です。

確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

 イエス様もこの地上に来られたとき荒野を通りました。
 それは文字通りの荒野も通りましたが、最大の荒野は十字架です。十字架の道はまさに苦しみの道、残酷で、惨めで、私たちにとっても悲しい出来事です。

 しかし、十字架がなければ、復活もありませんでした。
 もし十字架がなければ、私たちに神の愛は理解できなかったと思います。
 もし、イエス・キリストが十字架を背負わなければ、私たちに救いもありません。

 イザヤ書で、イエスさまの十字架を預言している箇所にこんな言葉があります。
 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。

 十字架を背負った主は、決して不幸だとは思っていないんですよ。それどころか、満足している。
 もし私たちの荒野のように乾いてしまった心にも、神の愛が注がれて、命の花を咲かせて輝きだすなら、彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足しているんですね。それが、神の愛なんです。
 彼は十字架の上でただ苦しんで死んだのではなく、最期までキリストとして命を輝かせて生きたんですよね。
 
 わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。

 私たちが十字架を見上げる時、今日も、神の愛が豊かに流れでています。
 十字架は2000年前の出来事かもしれませんが、十字架を背負った主は、今日も生きていて、私たちと一緒に「荒野」を歩いてくださるお方です。

 明日という日は、今日とは違う、全く新しい一日なんですね。今までと変わらない苦しみが続いていくわけではありません。小さく弱い私たちかもしれませんが、背伸びをすることも、あせる必要もありません。自分色の花を咲かせればいいじゃないですか。
 日々、神様から新しい恵み、新しい愛、新しい命をいただきながら、新しい一日を輝いて生きたいものですね。

先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。
わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。

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