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holyhope.net /メッセージ > キリストの受難を描いた映画「パッション」を見て…
ヨハネにとっての「パッション」(映画「パッション」を見て) Tヨハネ4:8〜10
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。


すでに、ご覧になった方も多いかと思うのですが、キリストの受難を描いた映画「パッション」、50万人を突破したようですね。
私も見たんですが、感動というよりは、衝撃の映画ですね。
「未信者の人にはわかりにくい」という評をよく聞くわけですが、しかし、クリスチャンであっても、確かに話の内容はわかるかもしれないけど、映画から受けた心の衝撃をうまく言い表せないという人は少なくないのではないかと思うんですね。私自身も見た直後というのは、どう受け止めていいかわからない…そんな感じでした。

普通、最近の映画では、ハッピーエンドとは限らないまでも、誰もが納得できる、ある共通の感動が与えられて終わるものがほとんどだと思うんです。「良かった…」とか、「怖かった…」とか。ところが、この映画では、そのような感動を与えようという意図や演出はほとんどというか、全くないんですね。

クリスチャンであればイエス・キリストに対する多くのイメージを持っていると思います。神の子、救い主、癒し主だったり、慰め主だったり、そしてその愛だったり…、
その愛する「イエス様」が、私たちの救いのために、十字架を背負ってくれたことを覚える時、私たちは、その愛の大きさに感動するんだと思います。

ところがパッションは、ゲッセマネの祈りから始まって、捕らえられ、鞭打たれ、血を流し、十字架に釘付けられていく、受難のシーンにスポットが当てられて、神の子、救い主、愛する「イエス様」像と言うのは、垣間見る程度にしか表現されていないんですね。

そうすると私なんかは、映画上のイエスに、自分の中にある「イエス様」に対する思いや感情を投影させる間もなく、ただ受難のストーリーが展開していってしまったんです。
そうすると、「イエス様」ではなく、ナザレの大工、イエスという1人の人間、1人の無力で憐れな男が受けた受難のように見えるわけです。

ですから、クリスチャンの間でも賛否両論でして、映画のイエスと、あの「イエス様」神の子、救い主、愛する「イエス様」とを重ね合わせて見れた人は、感動したという人もいます。
しかし一方で、否定的な意見も多いんですね。
それは、あの映画を観た人自身が、自分の中で、あの「イエス様」が私たちの救いのために十字架についてくれたんだ、愛されているんだという感動を受けることができなかったからだと思うんですよ。
でも、その十字架の現場にいた人たちの中で、その場、その瞬間に、イエス様のことを理解して、キリストの愛に感動しながら十字架を見上げていた人たちは、まずいなかったのではないでしょうか。

思えば、当時、現場にいた多くの人たち、実際の本物のイエス様を見た人たち、「十字架に付けろ」と叫んだ多くのユダヤ人や、鞭を振るうローマ兵たちには間違いなく、ただの「無力な男」にしか見えていなかったはずなんですね。

ペテロは、イエスを心配し追いかけながらも、恐怖のあまり「彼を知らない」と言って逃げてしまいます。
ピラトは、どうにか釈放してやろうと考えながら、群衆の勢いに圧倒され十字架刑にすることを許してしまいます。
ヨハネは、手も足も口も出せず、終始、見守ることしか出来ずにいたわけです。

「パッション」は、そんな十字架の現場へと、私たちも立たせてくれる映画だと思います。

「もし自分が、その現場にいたとしたなら、どのように振舞ったことだろう…?」

そう考えて見た時に、私も1人の傍観者でしかありえない…ということに気づかされたんですね。
「無力な1人の男」が鞭打たれ、十字架に釘付けられていく姿を見ながら、その壮絶な痛みの映像に目を逸らすことはあっても、自分とはどこか関わりがないことかのように、どこか身を引いて見ている自分がいるんですね。
しかし、それこそが、まさに十字架の真実の姿、現実なんだなと思うのです。
二千年前、神の栄光を捨て、人となったキリストは、神として崇められることなく、その愛を讃えられることなく、ただの「無力な男」として十字架を背負ってくれたんですね。
この「傍観者」にしかなりえない私のためにも…。

 そんなわけで、感想は、ひとりひとり違った感想が出てくると思います。誰かに意図して与えられた共通の感動ではなく、よかったという人もいれば、正直言って、ただ残酷なだけでいやだという人もいると思う。けれども、その感想、受けた衝撃は、映画への評価のようで、すなわち2000年前、その現場で、イエスの十字架を目撃した時に、自分は何を感じ、どのように振舞ったのか…それに等しいのではないかと思います。
 「君もそこにいたのか」という聖歌がありますが、その受けた衝撃を分かち合うところにこの映画の価値があるのかなという気がします。

さて、今日は、まさに「パッション」の現場である、十字架の元にいた唯一の弟子、ヨハネにスポットを当てて、ヨハネにとっての「パッション」はどのようなものだったのか…聖書からみてみようと思います。

 イエス様が捕らえられた時、ペテロとヨハネは後を追いかけて、大祭司のところにまで来たんですが、ペテロは、周りに「イエスの弟子だ」ということがばれると、彼を知らないと言って逃げてしまいます。ヨハネは、その現場にとどまるわけです。一見すると、最後まで忠実で、勇敢な弟子だったようにも見えるヨハネですが、しかし、ヨハネの福音書を見た時に、ヨハネが大祭司と知り合いだったことが、記されているんですね。

18:15 シモン・ペテロともうひとりの弟子は、イエスについて行った。この弟子は大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭にはいった。
18:16 しかし、ペテロは外で門のところに立っていた。それで、大祭司の知り合いである、もうひとりの弟子が出て来て、門番の女に話して、ペテロを連れてはいった。

 ペテロとは違い、ヨハネは大祭司の知り合いと言うことで、門番の女性とも顔見知り、周囲からイエスの弟子だということで責められる心配がなかったんです。
 つまり、この場面、ヨハネは「イエスの弟子」としてではなく、まさにイエスを十字架に付けようとしている張本人である「大祭司」の知り合いとして、パッション「キリストの受難」の現場にいたのです。

 ペテロは、イエスの弟子だということを公然と否定してしまったわけですが、ヨハネは、暗黙のうちにイエスの弟子であることを否定していたのです。
 「勇敢で、イエス様のことを愛していたのは、むしろペテロの方であって、私は、この時、すでにキリストを裏切っていた。」この記述は、その告白でもあるのです。
 
 ヨハネは、大祭司の知り合いでありながら、手も出ず、口も出せずに、ことの成り行きを見守ることしか出来なかったんです。もしヨハネが「イエスの弟子」として、十字架の現場にいるとしたならば、ただではすまないことは明白なんです。ペテロと同じように逃げ出しているかもしれない。
 本当だったら、あと12本、弟子の数だけ、十字架が並んでもおかしくなかったわけですよね。しかし、ヨハネは、あくまで「大祭司の知り合い」として、十字架の下にいたんです。

 イエス様にも、もちろん、わかっていました。「わたしの名のゆえに迫害を受ける」とおっしゃっていたのは、誰よりもイエス様自身です。ヨハネが十字架の下にまで来ているのに、無事でいられるのには、何か裏があるに違いないのです。
 ところが、イエス様は十字架の上で、そのヨハネに、母マリアを託していくのです。
 「ヨハネ。これが、あなたの母です」
 
 これが、ヨハネにとっての「パッション」、まさに衝撃だったと思います。

ヨハネは晩年手紙で、このように言います。
4:8 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。

 「愛のない者に、神はわからない」…とヨハネはいうわけですが、私たち、私自身にそんな愛があるのかな…というと、ないような気がするんですね。神様のこと、わかってるつもりで、わかってないのかななんて、思います。でも、そのような愛は、ヨハネにもなかった、ペテロにもなかったんですよ。
 では、どこに、そんな愛があるのか、どこからそんな愛がきたのか、神を理解するための愛、それはイエス・キリスト自身にあったわけです。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

 責められて非難されても仕方がないはずなのに、責めるどころか、母マリアを託するキリストの愛。
 大祭司の知り合いとして、眺めているだけ、裏では裏切っている自分のことですら、信頼し続けている神の愛。
 復活したあともイエス様は、ヨハネのことを責めることは決してなかったのです。

 そんなイエス様に触れ、その愛に触れた時に、ヨハネにも、「神は愛だ」ということがわかったのです。
 ヨハネは、自分のことを「イエスが愛された弟子」と表現しています。一見すると生意気そうですが、私がイエスを愛したのではなく、イエスが愛してくれた弟子であるという意味なんですね。

だからヨハネは、こう告白するのです。

4:10 私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛がある。

 私たちのために、十字架を背負われた方は、私たちの現実がたとえどんなであっても、たとえ十字架を目の前にした時に、大祭司の知り合いとなってしまうヨハネであっても、逃げ出してしまったペテロであっても、傍観者でしかありえない私であっても、決して見捨てず、決して見放さない。
あの十字架ゆえに、間違いなく、罪が赦され、間違いなく、愛されています。

 私たちは、ただ、その愛を受け取っていくこと、「神は愛だ」と受け止めていくこと、それが実は、私たちがどんなに立派なことをするよりも、どれだけ正しいことをしているかよりも、イエス様に対する愛のような気がするんですね。

 映画では、復活のシーンがラストわずか約30秒程で終わってしまうんですけれども、復活のキリストとのストーリーは、その受難の苦しみを通ったあと、一人一人の中で始まっていくものだと思います。
 ペテロにはペテロのストーリーがあり、ヨハネにはヨハネのストーリーがあったように、監督か、誰かによって意図して与えられた感動のストーリーではなく、復活のキリストとのストーリーは、私たち一人一人の中で、現実としてあるべきもの、起こってくるものだと思います。

イザヤ53章、まさにイエス様の受難が預言されている箇所ですが、こんな風に記されています。
53:10 しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。
もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
53:11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。

11 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。

 今、目には見えませんが、十字架を背負われたイエス・キリストは、今日もここに生きておられます。けれども彼は、十字架の苦しみを決して悔やんではいない。それどころか、満足している。なぜでしょうか。
 それは、その十字架の苦しみによって、私たちのすべての罪が償われ、神の愛の中に入れられていくのであれば、イエス様は、それで満足している。皆さん一人一人の存在、私たち一人一人に満足しているのです。

4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです
「パッション」公式サイト

配給元である日本ヘラルド映画の「パッション」日本公式サイト。
http://www.herald.co.jp/内
クリスチャン
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Marre「パッション」特設サイト

 ミュージシャン、作家でもあり、牧師でもあるマレこと石井希尚師がプロデュースするファンサイト。映画にまつわる内容を解説。
http://www.marre.jp/passion/



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