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「今日」という日がクリスマス ルカ 2:8〜11

 クリスマスと言えば12月25日、イエス・キリストの誕生日…といいたいところなんですが、実際に12月25日に生まれたというわけではないんですね。
 これは、後の時代に定めらたものでして、実際にお生まれになったのは7月だという人もいれば、9月くらいじゃないかという研究者もいて、なんだ、もう過ぎちゃったじゃあないか…みたいな、実際のところ、特定できないんですね。

 じゃあ、誕生日でもないのに、何をお祝いしようとしているのだろう…、教会では一体、何を喜んでいるのだろう…、今日はクリスマスの喜びについてちょっとお話したいと思います。

ルカ 2:8〜11
さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
御使いは彼らに言った。
「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」


世界で最初のクリスマス、その第一報が届けられたのは、野にいた羊飼いでした。
今と違って、辺りはシーンと静まり返って物音一つしない、遠くの方では、狼が遠吠えしていて、その寂しさを凌ぐために焚き火でもしていたかもしれません。

 皆さんは羊飼いという時に、どんなイメージがあるでしょうか…?
 聖書では「主は私の羊飼い」とも出てきますし、そんなに悪いイメージはないかもしれませんが、この当時の社会で羊飼いといえば、身分も極めて低かったんですね。神様の教えを守らない世のならず者、神から離れ、神からも見放された者、そういう風にも見られていました。
 誰からも愛されない、誰からも認められない、こんなに寂しいことはありません。彼らは、焚き火でも温まることのない心の寒い夜にいたのです。
 しかし、そんな彼らの元に、まず真っ先に、救い主の誕生の知らせは届けられていったのです。

恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

こんな俺たちのところに、救いがやってきた。
こんな俺たちのことでも、神様は愛してくれていた。

もう彼らは、喜び勇んでダビデの町、ベツレヘムへと向かったのです。
「そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てた」(16節)のです。

 もしイエス様が、王や貴族の子供として宮殿か豪邸で生まれていたとしたなら、羊飼いたちは、見ることも近寄ることも出来ない、ほど遠い存在でしかなかったと思います。ごく普通の宿屋の部屋に泊まっていたとしても、宿屋の主人に入れてもらえなかったかもしれないんです。
 しかし、イエス様は、マリアとヨセフという田舎大工の夫婦の子供として、飼い葉おけ、馬小屋で生まれた。だからこそ、羊飼いであっても、救い主に会うことが出来たんですね。

 クリスチャンや教会というと、たまに、清く正しく美しい…というか、世間一般とは少しかけ離れた清らかな世界にいそうに思われている事があるようですが、まあほとんどが美しい誤解というか、クリスチャンと言えども、極々普通の人間です。

 私も普段はサラリーマンをしていまして、大して儲からない旅行会社で働いているわけですが、まあ仕事をしていれば、ストレスは溜まるし、イライラすることもあるし、失敗すれば落ち込みもします。
 クリスチャンでも、間違うこともあるし、過ちを犯すこともあります。クリスチャンであっても、夫婦喧嘩の一つや二つ、三つや四つ、五つや六つ…、数え切れないくらいします。病気にもなれば怪我もするし、人間関係で悩むこともあります。

 しかし、救い主の誕生は、この民全体のための、すばらしい喜びの知らせだったのです。清く正しく美しい人のためにだけ、立派な人たちのためにだけでもなかったのです。

こんな俺たちのところに、救いがやってきた。
こんな俺たちのことでも、神様は愛してくれていた。

これが、まさにクリスマスの喜びです。

 ある強盗が十字架に釘つけられていました。十字架というのは、世界で最も苦しい死刑です。それは自業自得とはいえ、まさに人生最悪の日。
 でも、彼にとって特別だった事が一つあって、横に、あの救い主と呼ばれたイエスという男も一緒に十字架につけらにれていたことでした。

 もう周りではローマの兵隊やら宗教家やら、野次馬たちが野次を飛ばして、あざけっている中、この強盗はこう思うんです。自分が十字架につけられたのは自業自得、でも、この人は何も悪いことなどしていない。そして、こう言うんです。
「イエスよ、天国に行ったら、俺のことも思い出してほしい…。」
まさか自分が救われるとは考えてもいないんですね。しかし、イエス様は彼にこう語りかけるんです。
「今日、あなたは私と一緒にパラダイス、天国に行く。」

こんな俺のところに、救いがやってきた。
こんな俺でも、イエスは愛してくれていた…。

彼にとって人生最後の最悪の日は、人生最初のクリスマスへと変わったのです。

 イエス様は一番目に、「今日」、今日だと言いました。どれだけ正しいことをしたか、どれだけ聖書読んだか、最低1年くらい教会に通ってからでもありません。
 強盗であっても、今までどんな罪や傷があったとしても、「今日」、イエス・キリストを信じるなら、今日、救われます。
 2番目に、「私と一緒だ。」そう言ったんです。ただ単に「あなたは天国に行くよ」じゃないんですね。「私と一緒に、天国に行く。」
 もし、イエス様がなんら苦しみを負わず、ただ十字架の下にいただけなら、彼の心に、その声は届かなかったかもしれません。でも「私が一緒だ。」イエス様も一緒に、同じ苦しみを負っている…。だから、彼は十字架の苦しみの中にありながら、そこに慰めが与えられ、救いの希望まで持つことが出来たんですね。

そんなイエス様のことを弟子のヨハネは、こう表現しています。
「光は、闇の中で輝いている…。闇はこれに打ち勝たなかった。」ヨハネ 1:5
言葉を変えれば、イエス・キリストは「闇」の中にいる…。

皆さんにとっての、「闇」とは何でしょう…。
イエス・キリストは、目にはみえませんが、今日もここにいてくださいます。
人生山あり谷ありです。楽しい日もあれば、悲しい時、苦しい時もあります。でも、その悲しみ、苦しみ、痛み、涙…、その「闇」の中にイエスはおられます。
 たとえ、病院のベットで一人、孤独のうちに叫ばなくなくてはならない、そんな夜が来たとしても、どうぞ思い出してください、イエス・キリストはあなたの傍にいて、「私が一緒だ、私はあなたを愛している」と語りかけてくださる、そういうお方です。
 そんな救い主と出会うその日、その「今日」という日が、まさにクリスマス

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。
今日、あなたは私と一緒にパラダイスに行く。

こんな私のところに、救いがやってきた。
こんな私でも、イエス・キリストは愛してくれていた。

私たちが救い主に出会うのは、
夏の晴れ渡った青空の下というよりは、やっぱり寒い冬の夜、星空の下、そんな日の出来事なのかもしれません。

恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。


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