あけましておめでとうございます。
皆様は、どのような新年をお迎えになられましたでしょうか。本年も夫婦二人、よろしくお願い申し上げます。
一昨年は、それまで勤めていた会社を辞めることになり、できた時間で静のCD製作に取り組む事ができました。
昨年は、1月より転職した会社で働き始めたのですが、旅行業という全く未経験の業種で、WEBサイトの運営という新しい仕事にチャレンジ。そこで学んだことを生かして教会や、このホームページの製作をすることもできました。
また、これは本当に感謝なことに、静の音楽活動が徐々に広まっていって、年末にはキャンパスクルセードのクリスマスCDへの参加、クリスチャン新聞でも取り上げていただき、クリスマスの時期にはコンサートも沢山入って、私もお手伝いで忙しくもあり、充実した日々を過ごす事ができました。
そして今年は…、
仕事も1年経ってだいぶ慣れ、時間的にも多少は余裕もでてくると思います(希望的な観測?)ので、自分自身の活動にもう少し力を入れていきたいな…と思っている今日この頃です。
ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです…。
Tコリント1:22, 23
これは神学校に入る直前の頃に導かれた御言葉の一つなのですが、年末より、再びこの言葉が心に響いてきています。
とかく昨今、よく言えば価値観が多様化している…といえるかもしれませんが、悪く言えば崩壊していると思います。
自分らしく、自分なりに、自分流…と個性が尊重されているようで、実は、基盤となる価値感が崩壊してしまっていて、「自分」がよくわからない、「自分」に自信がもてない…なんてこともありそうです。
もしかするとキリスト教の内部でも同様のことは言えるのかもしれません。
リバイバル、リバイバルと叫ばれてこの方、結局のところ、どれだけの人が集まったか…、どれだけの人が救われたか…、結果としての数字で評価されてしまうことも少なくないような気がします。
決して数字を得るためではないにしても、試行錯誤、いろいろな活動が求められ、奉仕、伝道、献金、あるいは会堂建設…と様々な事が要求され、疲れて教会から離れていってしまう人も少なくありません。そのために様々な教会論や礼拝論も説かれ、弟子訓練、デボーション、カウンセリング、セルグループなどなど…本当に様々な方法論が打ち出されてきました。
それはそれで必要なことなのですが、どこかでちょっと首をかしげたくなる時もあるのが正直な気持ちです。。。
…ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
日本人は何を求めているのでしょう。本当のところ何が必要なのでしょう。。。。
しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
本当のリバイバルとは、突然、多くの人達が集まるとか、あるいは特別な癒しや奇跡の業が起きるとか、そういうことではないんですよね。。。
リバイバルとは信仰復興。私たちクリスチャンが、もう一度、本当の価値観を取り戻す必要があるのかもしれません。
100人、1000人集まる大教会・大集会の働きと、10人、5人の小さな教会の働きを比べて、どちらが優れているかなど数字で評価できるものではありませんよね。どちらも大きな働きなんです。
もし、たった一人だったとしても、主イエス・キリストの元に立ち返る事ができたとするならば、それは立派にリバイバル、天には喜びが溢れているんですよね。
それだけ、その一人の救い、その一つの魂の価値は、何ものにも変えがたいもののはずです。
クリスチャンになって、誰しもがみな伝道の働きや、あるいは、その他の奉仕ができるとは限りません。しかし、みな一人一人、キリストが十字架の命を懸けた大切な存在であることには変わりがありません。私もそうだし、皆さんもそうです。キリストの大切な羊たちです。
本当に価値観は多様化し、混迷していくのが現代だと思います。
私自身、小さな欠けだらけの器なのですが、もう一度、自分自身、カルバリの十字架の前に身を置かせていただき、キリストの愛を受け、"一人"のために、メッセージの奉仕を取り組んでいきたいと考えております。
本年も私たちの活動のために、お祈りに覚えていただければ幸いです。
皆様方にとっても、喜びに溢れた1年でありますように。。。
また御教会、特に日ごろ牧会の労を取っていらっしゃる先生方のためにも、お祈りしております。
小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。ルカ 12:32
|